概括的唐宋時代觀
唐宋時代といふことは普通に用ふる語なるが、歴史特に文化史的に考察すると、實は意味をなさぬ語である。それは唐代は中世の終末に屬し、而して宋代は近世の發端となりて、其間に唐末より五代に至る過渡期を含むを以て、唐と宋とは文化の性質上著しく異りたる點がある。但し從來の歴史家は多く朝代によりて時代を區劃したから、唐宋とか元明清とか一の成語になつて居るが、學術的にはかゝる區劃法を改むる必要がある。但し今は便宜上、普通の歴史區劃に從ひ唐宋時代の名を用ひて、支那の中世より近世に移る間の變化の状態を總括して説いて見ようと思ふ。
譯文(甲):
唐宋時期一詞雖然成了一般用語,但如果從歷史特別是文化史的觀點考察,這個詞其實並沒有什麼意義。因為唐和宋在文化的本質上有顯著的差異:唐代是中世的結束,而宋代則是近世的開始,其間包含了唐末至五代一段過渡期。由於過去的歷史家大多以朝代區劃時代,所以唐宋和元明清等都成為通用語,但從學術上來說,這樣的區劃法有更改的必要。不過,為了方便討論,在這裡暫且依照普通的歷史區劃法,使用唐宋時代一詞,嘗試總和說明中國從中世轉移到近世的變化情形。
譯文(乙):
所謂唐宋時代,是一個常用的說法,然而從歷史學尤其是文化史的角度來考察的話,卻實在是一個毫無意義的概念。這是因為,唐代屬於中世的末端,而宋代則是近世的發端,其間包含著從唐末到五代的過渡期,因此唐代和宋代在文化性質上有著明顯的差異。雖然歷史學家往往依據朝代來區劃時代,使得「唐宋」或「元明清」之類都成為了一種固定的說法,然而在學術上,這種分期法卻有予以修正的必要。不過現在為了方便起見,這裡還是遵照常見的歷史分期法,使用「唐宋時代」這個稱呼,試著對中國從中世到近世之間的變化作一概括性的說明。
中世と近世との文化の状態は、如何なる點に於て異るかといふに、政治上よりいへば貴族政治が廢頽して君主獨裁政治が起りたる事で、貴族政治は六朝から唐の中世までを最も盛なる時代とした。勿論此貴族政治は、上古の氏族政治とは全く別物で、周代の封建制度とも關係がなく、一種特別のものである。此時代の支那の貴族は、制度として天子から領土人民を與へられたといふのではなく、其家柄が自然に地方の名望家として永續したる關係から生じたるもので、所謂郡望なるものゝ本體がこれである。それ等の家柄は皆系譜を重んじ、其ために當時系譜學が盛んになつた位である。現に存在する諸書の中でも、唐書の宰相世系表は即ち其有樣を示したもの、又、李延壽の南北史の中には、朝代に拘らず各家の人を祖先から子孫まで續けて纏まれる傳を書いたから、人のために家傳を作つた體裁になつたといふ非難を受けたが、これは南北朝時代の實際状態が無意識の裡に歴史の上に現れたのである。
譯文(甲):
中世和近世的文化狀態,究竟有什麼不同?從政治上來說,在於貴族政治的式微和君主獨裁的出現。六朝至唐中葉,是貴族政治最盛的時代。當然,這種貴族政治,與上古的氏族政治完全不同,和周代的封建制度亦沒有關係。這個時期的貴族制度,並不是天子賜予人民領土,而是由地方有名望的家族長期自然相續,從這種關係中產生世家,亦就是所謂郡望的本體。這些世家都重視譜系,導致當時的譜學盛行。現存史籍中,《新唐書.宰相表》便反映了這種情形。另外李延壽在《南、北史》中所寫的是南北朝時代的實際情況在歷史著述中的反映。
譯文(乙):
中世與近世的文化狀態,在什麼地方不一樣呢?從政治上來說,是貴族政治廢弛,君主獨裁政治興起。從六朝到唐代中期,是貴族政治最為繁盛的時代。當然,這種貴族政治和上古的氏族政治完全不是一回事,和周代的封建制度也沒有關係,是一種特別的東西。這個時代的中國貴族,在製度上並不是由天子賜予領土和人民,而是作為地方上的名門望族,其門閥自然地得到長期延續,由此而產生的結果。所謂「郡望」的本體就在於此。這些門閥都重視譜系,以至於當時譜學盛行。在現存的各種文獻當中,《唐書.宰相世系表》就是這種情形的體現。又如李延壽的《南史》、《北史》中,不拘朝代,將各個家族的人物從祖先到子孫一並合傳記載,因此受到非難,認為這種體裁是在為人作家傳。其實這正是史書在無意間體現了南北朝時代的實際狀態。
かくの如き名族は、當時の政治上の位置から殆ど超越して居る。即ち當時の政治は貴族全體の專有ともいふべきものであつて、貴族でなければ高い官職に就く事が出來なかつたが、しかし第一流の貴族は必ず天子宰相になるとも限らない。ことに天子の位置は尤も特別のものにて、これは實力あるものゝ手に歸したるが、天子になつても其家柄は第一流の貴族となるとは限らない。唐太宗が天子になれるとき、貴族の系譜を調べさせたが、第一流の家柄は北方では博陵の崔氏、范陽の盧氏などにて、太宗の家は隴西の李氏で三流に位するといふことなりしも、此家柄番附は、天子の威力でもこれを變更する事が出來なかつた。南朝に於ても王氏、謝氏などが天子の家柄よりも遙に重んぜられた。是等は皆同階級の貴族の間で結婚をなし、それ等の團體が社會の中心を形成して、最もよき官職は皆此仲間の占むる所となつた。
譯文(甲):
名族在當時佔有優越的政治地位。這就是說,當時的政治屬貴族全體專有,若非貴族,不能出任高官。不過一流貴族並非一定要當天子或宰相。特別是本來便與眾不同的天子之位,雖然一般都歸於有實力者之手,但當上天子的世家並不一定成為一流貴族。唐太宗成為天子時,命人調查貴族的譜系,第一流的世家是北方的博陵崔氏和範陽盧氏等,太宗本家的隴西李氏,不過位於三流。這種世家分級,即使天子的威力也不能改變。南朝亦一樣,王氏、謝氏等世家遠比天子受人重視。他們和同級的貴族聯姻,這些團體形成社會的中心,最好的官職亦由這個圈子的人佔有。
譯文(乙):
像這樣的名門望族,幾乎都是超然於他們在當時的政治地位的。雖然當時的政治堪稱為貴族全體獨佔之物,如果不是貴族就不能當官,然而第一流的貴族卻未必就會成為天子宰相。尤其天子之位最為特殊,手握實權的人物才能得到這個位置,但即使身登大寶,其家門也未見得就能成為第一流的貴族。唐太宗為天子時,命人調查貴族譜系,北方的第一流門第是博陵崔氏、範陽盧氏等,太宗家族的隴西李氏卻只位居三流而已。然而這種門第座次,卻是連天子之威也無法變更的。南朝也是一樣,王氏、謝氏等比天子家門受重視許多。他們都在同一階級的貴族之間通婚,其集團構成了社會的核心,最好的官職都被其中人物所佔據。
この貴族政治は唐末より五代までの過渡期に廢頽して、これに代れるものが君主獨裁政治である。貴族廢頽の結果、君主の位置と人民とが近接し來りて、高い官職につくのにも家柄としての特權がなくなり、全く天子の權力によりて任命せらるゝ事となつた。この制度は宋以後漸次發達して、明清時代は獨裁政治の完全なる形式をつくることゝなり、國家に於ける凡ての權力の根本は天子一人これを有して、他の如何なる大官も全權を有する事なく、君主は決して如何なる官吏にも其職務の全權を委任せず、從て官吏は其職務について完全なる責任を負ふ事なくして、君主一人がこれを負擔する事となつた。
譯文(甲):
這種貴族政治在唐末至五代的過渡期式微,取代的是君主獨裁政治。貴族失勢的結果使君主的地位和人民較為接近,任何人要擔任高職,亦不能靠世家的特權,而是由天子的權利來決定和任命。這個制度在宋代以後逐漸發達,到了明清時期,獨裁政治的形式變得完備,國家所有權力歸於天子一人所有,其他任何大官均不能有全權,君主絕不將職務的全權委任與任何官吏,官吏亦因而不再但其其職務的全部責任,改由君主一人去承擔。
譯文(乙):
這種貴族政治在唐末五代的過渡時期衰落下去了,代之而起的是君主獨裁政治。貴族衰落的結果,就是君主的位置與人民接近起來,高官顯爵無法再依靠家族特權來獲得,完全是基於天子的權力才得以任命了。這制度在宋代以後漸次發達起來,在明清時代達到了獨裁政治的完善形態。國家一切權力的根本,都為天子一人所有,除此之外無論是怎樣的大官,都無法握有全權,君主絕對不對任何官吏全權委任職務,因此官吏在職務上也就不負完全責任,所有責任都由君主一人來承擔了。
この二種の政治状態を比較すると、貴族政治時代に於ける君主の位置は、時として實力あるものが階級を超越して占むる事ありても、既に君主となれば貴族階級中の一の機關たる事を免るゝ事が出來ない。即ち君主は貴族階級の共有物で、その政治は貴族の特權を認めた上に實行し得るのであつて、一人で絶對の權力を有することは出來ない。孟子は嘗て卿に異姓の卿と、貴戚の卿とあつて、後者は君主に不都合あればこれを諫め、聽かざればこれを取り換へるといへる事があるが、かゝる事は上代のみならず、中世の貴族政治時代にも屡々實行された。君主は一族即ち外戚從僕までも含める一家の專有物で、從てこれ等一家の意に稱はないと廢立が行はれ、或は弑逆が行はれた。六朝より唐に至るまで、弑逆廢立の多いのは、かゝる事情によるので、この一家の事情は多數の庶民とは殆んど無關係であつた。庶民は國家の要素として何等の重きをなさず、政治とは沒交渉である。
譯文(甲):
比較兩種政治,貴族政治時代的君主位置,雖然有時可以由實力者超越等級去佔領,但既然成為君主,最終便不免成為貴族政治機制的一環。換言之,君主是貴族階級的共有物,只有在成人貴族的特權後才可以推行其政治,個人不可能擁有絕對權力。孟子曾分卿為異姓的卿和貴戚的卿,後者在君主有不當時進諫,君主如果不聽則更換君主。這種事不單見於上古,在中世的貴族時代亦屢見不鮮。君主是一家的專有物,這一家連外戚、僕從也包括在內,這一家覺得君主不稱意便施行廢立,或實行弒逆。六朝至唐弒逆廢立多見,正在於此。這一家的事情與多數的庶民幾乎毫無關係,庶民作為國家一份子,未見有任何的重要性,與政治並無關涉。
譯文(乙):
比較這兩種政治狀態,在貴族政治時代,雖然實權者時或超越階級,佔據君主之位,但一旦成為君主,同時也就無可避免地成為了貴族階級中的一個單元。換言之,君主乃是貴族階級的共有物,其政治在承認貴族特權的基礎上才得以實行,君主一人是無法掌握絕對權力的。孟子曾說卿有異姓之卿,有貴戚之卿,後者當君有大過則諫,不聽則易之。這不僅存在於上古,在中世的貴族政治時代也屢次被實行。君主是其一族,也就是包括外戚從僕在內的整個家族的專有之物,因此如果君主不稱一家之意,便輒行廢立,甚而至於弒逆。從六朝到唐代,多有弒逆廢立之事,就是因為這個緣故。這一家之事與大眾庶民幾乎都是完全無關的。庶民作為國家成分毫不重要,與政治是沒有干涉的。
かくの如く君主は單に貴族の代表的位置に立つて居つたのは中世の状態なるが、近世に入りて其貴族が沒落すると、君主は直接に臣民全體に對する事となり、臣民全體の公の所有物で、貴族團體の私有物でなくなつた。かくして臣民全體が政治に關係する事となれば、君主は臣民全體の代表となるべき筈のやうであるが、支那にはかゝる場合なかりしために、君主は臣民全體の代表者にあらずして、夫自身が絶對權力の主體となつた。しかし兎も角、君主の位置は貴族時代よりは甚だ安全となり、從て廢立も容易に行はれず、弑逆も殆んどなくなつた事は宋以後の歴史は其然るを證明する。尤も元代のみは頗る異例がある。これは蒙古文化の程度によるので、蒙古の文化は支那の同時代に比較すると甚しく遲れて、却て支那の上古時代と同程度であるのに、支那を征服せるがために、突然に近世的の國家組織の上に君臨したのであるから、其帝室には依然として貴族政治の形骸が殘つて居り、民政の方のみが近世的色彩になつたから、一種の矛盾した状態をあらはしたのである。
譯文(甲):
君主在中世雖然居於代表貴族的位置,但到了近世,貴族沒落,君主再不是貴族團體的私有物,他直接面對全體臣民,是他們的公有物。這樣一來,如果有河臣民全體有關的事,君主應該代表全體臣民,但中國的情形並非如此。君主不是臣民全體的代表,本身反成為絕對權力的主體。雖然這樣,君主的地位相對於貴族時代更為安全,要廢立亦不容易,弒逆在宋代以後的歷史中幾乎全部消失,可為證明。不過元代是唯一異例。蒙古文化遠較中國文化落後,只有中國上古時代的程度,卻征服了中國。由於突然君臨一個近世的國家組織,帝室依然留下貴族政治的形態,只有民政方面帶有近世的色彩,出現了一種矛盾的狀態。
譯文(乙):
像這樣,君主純粹居於貴族的代表性地位,這是中世的狀態。進入近世以後,隨著貴族的沒落,君主開始直接面對全體臣民,成為全體臣民的公有物,而不再是貴族團體的私有物了。這麼一來,如果全體臣民與政治發生關係,君主就應當要作為全體臣民的代表了,不過因為中國並沒有出現這樣的情況,所以君主也並沒有成為全體臣民的代表者,而是自身成為了絕對權力的主體。不過無論如何,和貴族時代相比,君主的地位是要安全得多了,因此廢立也沒有那麼容易實行,弒逆更是幾乎都沒有了。宋以後的歷史都證明了這一點──當然,唯獨元代可以看到一些特殊的例子。原因則在於蒙古文化的發展程度。蒙古文化和中國同時代比起來要落後得多,只相當於中國上古時代的程度而已,然而卻征服了中國,突然之間就君臨於近世性的國家組織之上,因此其帝室依然殘留著貴族政治的形骸,僅僅在民政方面蒙上了近世色彩,故而就呈現出一種矛盾的狀態來了。
貴族政治の時代には、貴族が權力を握る習慣であるから、隋の文帝・唐の太宗の如き英主が出で、制度の上に於ては貴族の權力を認めぬ事にしても、實際の政治には尚其形式が殘つて、政治は貴族との協議體となつた。勿論この協議體は代議政治ではない。
譯文(甲):
貴族政治時代的習慣是由貴族掌握權力,所以有隋文帝、唐太宗等英主出現。儘管在製度上並不承認貴族的權利,但在實際的政治上仍保留其形式,政治成為天子和貴族的協議體,這個協議體並不是代議政治。
譯文(乙):
在貴族政治時代,雖然出現了隋文帝、唐太宗那樣的英主,在製度上拒絕承認貴族的權力,然而因為存在著由貴族掌握權力的習慣,在實際的政治上依然殘留著這種形式,政治成為了和貴族的合議體制。當然,這種合議體制並不是代議政治。
唐代に於ける政治上の重要機關は三つあつた。曰く尚書省、曰く中書省、曰く門下省である。その中で中書省は天子の祕書官で、詔勅命令の案を立て、臣下の上奏に對して批答を與へることになつて居るが、この詔勅が確定するまでには門下省の同意を必要とする。門下省は封駁の權を有して、若し中書省の案文が不當と認むるときには、これを駁撃し、これを封還することも出來る。そこで中書と門下とが政事堂で協議して決定する事となる。尚書省はこの決定を受取つて執行する職務である。中書省は天子を代表し、門下省は官吏の輿論、即ち貴族の輿論を代表する形式になつて居るのではあるが、勿論、中書・門下・尚書三省ともに大官は皆貴族の出身であるので、貴族は天子の命令に絶對に服從したのではない。夫故に天子が臣下の上奏に對する批答なども、極めて友誼的で、決して命令的でない。然るに明清時代になりては、批答は全く從僕などに對すると同樣、ぞんざいな言葉遣ひで命令的となり、封駁の權は宋以後益々衰へ、明清に在りては殆んどなくなつた。
譯文(甲):
唐代在政治上有三個重要機關:尚書省、中書省、門下省。其中中書省是天子的秘書官,負責起草詔敕命令,有臣下上奏給予批答。在詔敕確定前,必經門下省同意。門下省有封駁權,若認為中書省的案文不當,可以駁斥和封還。事情由中書和門下在政事堂協議決定,尚書省的職務是接受該決定,並加以執行。在形式上,中書省代表天子,門下省代表官吏輿論,即貴族的輿論。但因為中書、門下、尚書三省的長官都出身貴族,貴族並不絕對服從天子的命令。天子在對臣下上奏的批答中,亦非常友好,並非像下命令一樣。不過到了明清時代,所有批答均如命令僕從,語言粗暴。封駁之權在宋後日益衰退,至明清幾乎完全消失。
譯文(乙):
唐代在政治上有三個重要的機構,曰尚書省,曰中書省,曰門下省。其中中書省是天子的秘書官,掌管草擬詔敕命令,批答臣下奏議,但詔敕的最終確定卻必須要得到門下省的同意。門下省有封駁之權,倘若認為中書省所擬不當,就予以駁正,還可以封還。因此就變成中書與門下在政事堂協議決定政事了。尚書省的職務是接受實施他們的決策。在政治形式上,中書省代表天子,門下省則代表官吏的輿論,也就是貴族的輿論。當然,中書、門下、尚書三省的高官都出身貴族,貴族對天子之命不是絕對服從的。因此天子對臣下上奏的批答之類都極為友善,絕對不是命令式的。然而到了明清時代,批答就完全像是對待從僕一般,言辭粗暴,成為命令式的了。封駁之權在宋代以後就漸漸衰微,在明清時期幾乎完全消亡了。
かくの如き變化の結果、宰相の位置は天子を輔佐するものでなくして、殆ど祕書官同樣となりたるが、尚宋代にては唐代の遺風も存在して、宰相は相當の權力を有したるも、明以後には全く宰相の官を置かぬ事になり、事實宰相の仕事をとれるものは殿閣大學士であつて、これは官職の性質としては天子の祕書役、代筆の役で、天子を輔佐し、其責任を分ち、若くは責任を全く負擔する古代の宰相の俤はなくなり、君權のみが無限に發達した。唐の時の宰相は、皆貴族階級の中より出で、一度其位置に到ると、天子と雖も其權力を自由に動かす事が出來ない習慣であつたが、明以後は如何に強大なる權力を有する宰相でも、天子の機嫌を損ねると、忽ち廢黜せられ、一個の平民とせられ、囚人と墜さるゝ。宋代は恰も唐と明清との間に立つので、明清の如く宰相に權力がないといふ譯ではないが、天子の權力を笠に被て居る間は全盛を極めても、天子の背景を失ふと忽ち一匹夫となる。宋の寇準・丁謂、南宋の賈似道などの境遇の變化を見ても分るのである。地方官なども、唐代には、中央の權力と關係して、各地方に於て、殆ど君主同樣の權力を有するもの多き習慣なりしが、宋以後は、如何なるよき位置の地方官も、君主一片の命令で容易に交迭せらるゝ事となつた。宦官は天子の從僕であるが、唐代の宦官は天子の眷族の有力なる部分となつて、定策國老門生天子といふ諺さへ出來たが、後に明の時にも宦官が跋扈せるも、天子の恩寵あるときにのみ權力があつて、恩寵が衰へると其勢力は全くなくなる。唐と明との宦官にかくの如き相違あるは、即ち貴族政治と君主獨裁政治との相違ある結果である。
譯文(甲):
這種改變的結果是,宰相的地位不再是輔佐天子,變得和秘書官差不多。宋代雖然尚存唐代遺風,宰相擁有相當的權利,但明代以後完全不再置宰相個官職,實際上執行宰相之職的是殿閣大學士。這個官職的性質是天子的秘書和代筆,而不是和古代的宰相一樣輔佐天子,分擔部分或承受全部責任,只有君權才無限發達。唐代宰相全部出自貴族階級,他們一旦得位,即使天子也不能自由動搖其權利。明朝以後,不管宰相權利有多大,若令天子不高興,他們便會忽然受到廢黜,成為平民甚至犯人。宋代恰好處在唐和明清之間,宰相商不至於像明清一樣沒有權力,不過即使得到權利,達於極盛,一旦失去了天子在後面支持,亦同樣會變為匹夫一名。只要看北宋的寇準、丁謂,南宋的賈似道等的境遇變化,事情便一目了然。地方官亦一樣。唐代各地方官大多習慣保有和君主幾乎同樣的權利。宋以後的地方官,不管地位如何良好,只要君主一紙命令,職位便簡單的交替。宦官稱為天子的僕從,但唐代宦官是天子家族中有影響力的一員,所謂「定策國老、門生天子」。而明代雖然也有宦官跋扈,但他們只是在得到天子恩寵時擁有權力,恩寵衰退時勢力亦隨之全失。唐代和明代宦官的差別,就是貴族政治和君主獨裁政治差異的結果。
譯文(乙):
這種變化的結果,就使得宰相之位不再是輔佐天子的存在,而只不過像是秘書官一樣了。不過宋代尚存唐代遺風,宰相仍握有相當大的權力。而明代以後就完全不置宰相了,事實上,擔任宰相職務的是殿閣大學士,這一官職在性質上只是天子的秘書和代筆,古代宰相那種輔佐天子、分擔責任,甚或擔負完全責任的風貌已經蕩然無存,只有君權無限地發達。唐代的宰相都出自貴族階級,一旦到達這個地位,慣例上即使是天子也不能自由動搖其權力。然而明代以後,無論是如何權力熏天的宰相,一旦觸怒天子,也就立被廢黜,貶作一介平民,淪為階下之囚。宋代恰處於唐代與明清之間,宰相還不像明清那樣失去權力,但即使依仗天子的權力達於極盛,只要一失去天子的支持,也不過就是一介匹夫而已。我們看北宋的寇準、丁謂,南宋的賈似道等人的境遇變化,也就可以明白了。地方官也是一樣。在唐代,地方官和中央權力相交結,在地方上往往擁有幾乎等同於君主的權力,然而宋代以後,無論是位置多麼好的地方官,只要君主一紙命令,也就輕而易舉地遭到更換。宦官是天子的從僕,然而唐代的宦官卻成為天子眷屬中的一個有力部分,出現了「定策國老,天子門生」這樣的俗諺。後來到了明代,宦官縱然跋扈,也不過是在蒙受天子恩寵的時期有權力而已,恩寵一衰,其勢力就完全消弭。唐代與明代的宦官之所以會有如此的差異,根源正在於貴族政治與君主獨裁政治之間的差異。
それと同時に人民の地位も著しく變化して來た。元來法治國とは違ひ、人民の權力を明らかに認める事はないけれども、人民の地位と財産上の私權とは、貴族政治時代と大に趣を異にするやうになつた。貴族時代には人民は貴族全體の奴隷の如く視られしが、隋唐の代となり、人民を貴族の手から解放して國家の直轄とし、殊に農民を國家の小作人の如く取扱ふ制度が作られたが、事實は政治の權力は貴族にあつたから、君主を擁したる貴族團體の小作人といふ状態であつた。土地の分配制度なども、かくの如き意義と密接の關係があり、殊に租税の性質は其意義を尤もよく現して居る。即ち唐代の租・庸・調の制度は、人民は政府に對して地代を納め、力役に服し、工作品を提供する意味のものであつた。唐の中世から此制度自然に壞れて兩税制度となり、人民の居住が制度上自由に解放さるゝことゝなり、地租などの收納も錢で代納することゝなつたので、人民は土地に拘束せらるゝ奴隷小作人たる位置から、自然に解放さるゝ端緒を開きしが、宋代に至り、王安石の新法によりて、人民の土地所有の意味が益々確實になつて來た。青苗錢の如き低利資金融通法も、人民が土地の收穫を自由に處分する事を認める意味とも解さるゝ。又從來の差役を改めて雇役とし、隨分反對者の攻撃を受けたが、此雇役制度は尤も當時の事情に適せるを以て、後に司馬光が王安石の新法を改めた時に、新法反對論者の中にも、蘇東坡始め、差役を復舊することはこれを否なりとした人が多い。支那は人民の參政權を認むるといふことは全くなかりしも、貴族の階級を消滅せしめて、君主と人民と直接に相對するやうになつたのは、即ち近世的政治の状態となつたのである。
譯文(甲):
同時,人民的地位亦有顯著變化。中國本來不是以法治國,不承認人民的權利。但近世人民的地位和財產私有權,與貴族政治時代大異其趣。貴族時代,人民在整體貴族嚴重視若奴隸。隋唐時代開始,人民從貴族手中解放,由國家直轄。雖然設有特別制度,讓農民得到好像國家佃人一般的對待,但由於實際上政治權力在貴族手中,人民的情況有如是擁有君主的貴族團體的佃農。土地分配製度等亦與此有密切的關係,尤其是租稅的性質,更顯出其意義。具體的說,唐代的租庸調製,意味著人民向政府納地租、服力役和提供生產成果。唐代中葉開始,這個制度自然崩壞,改為兩稅制,人民從束縛在土地上的製度中得到自由解放。他們可以用錢代實物去納地租,不再受土地束縛,從而開始擺脫奴隸佃農地位。到了宋代,經過王安石的新法,人民擁有土地所有權的意義更加確實。類似青苗錢一樣的低利息金融通法,也可以理解為政府承認人民有處置土地收穫的自由。另外,王安石改舊有的差役為僱役,雖然受到反對者的大力攻擊,但這個僱役制度最為適合當時的情況,後來司馬光改王安石的新法時,以蘇東坡為首的新法反對論者中反對差役復舊的人亦頗多。中國雖然完全不承認人民的參政權,但貴族階級消滅後,君主和人民直接相對,亦是進入近世政治以後的事。
譯文(乙):
同時,人民的地位也發生了顯著的變化。雖然到底與法治國家不同,不會明確承認人民的權力,但人民的地位與財產上的私有權,都已經與貴族政治時代大異其趣。在貴族時代,人民被視同貴族整體的奴隸。到了隋唐時代,人民從貴族手中解放出來,由國家直接統轄,並且還實行了將民眾當作國家佃農來管理的製度,然而在事實上,政治的權力既然為貴族所有,民眾也就不過是擁有君主的貴族團體的佃農而已。土地的分配製度等面向也與此有著密切的關聯,尤其是租稅的性質,最為典型地體現出這一意味。唐代的租庸調制度,就意味著人民對政府繳納地租,服力役,提供工作產品。從唐代中期開始,這個制度自然崩壞,成為兩稅制,人民的居住在製度上獲得了自由解放。因為地租等的收納轉為用錢代納,以此為契機,人民就自然而然獲得了解放,擺脫了被土地所束縛的農奴地位。到了宋代,由於王安石實行新法,人民對土地的所有權越發明確起來。像青苗法那種低利率資金融通法的意義,也可以理解為是認可了人民對田地收成的自由處理。此外,將歷來的差役改為僱役,雖然受到反對者的激烈攻擊,但這一僱傭制度卻最為適應當時的形勢,因此後來司馬光改廢王安石新法的時候,以蘇東坡為首,新法反對論者中也有許多人反對差役復舊。儘管中國完全不認可人民的參政權,但貴族階級消失,君主與人民直接相對,這也就是進入了近世政治的狀態了。
又官吏即ち君主と人民との中間の階級も選擧となつた。勿論この選擧とは、今の代議政治の如く代議的ではなくして、一種の官吏登用の形式を指すものなるが、即ち選擧の方法が貴族的階級からの登用を一變して、試驗登用、即ち科擧となつたのである。六朝時代には天下の官吏を九品中正の方法で選擧し、全く貴族の權力で左右したのであつて、當時の諺に上品無寒門、下品無勢族といふ事があつたが、隋唐以來此弊を破るために科擧を行ふことゝなつた。然し唐代の科擧は其方法が矢張依然として貴族的なりしが、これも宋の王安石時代から一變した。即ち唐代より宋の初期の科擧は帖括と詩賦とを主とした。經書を暗誦する力を試驗するのが帖括で、文學上の創作力を試むるのが詩賦である。夫れ故、其試驗は學科の試驗といふよりは、寧ろ人格試驗と文章草案の力とを試驗するといふ方法であつた。處が王安石の制度では帖括に代ふるに經義を以てし、詩賦に代ふるに策論を以てした。經義は經書の中の義理に關して意見を書かせ、策論は政治上の意見を書かせた。勿論これも後には、經義は單に一時の思ひ付きを以て試驗官を驚かす文章の遊戲と變じ、策論も單に粗末な歴史上の事蹟を概説するに過ぎないものとなつて、實際の政務とは何等の關係もなくなつたが、兎も角これを變ずるだけは、從來の人格主義から實務主義に改むるのが目的である。試驗に應ずるものも、唐代では一ヶ年に五十人位より及第しなかつたが、明以後、科擧の及第者は非常に増加して、或時は三年に一度であるけれども、數百人を超え、ことに應試者は何時でも一萬以上を數ふる事となつた。即ち君主獨裁時代に於て、官吏の地位は一般庶民に分配さるゝことに於て、機會均等を許さるゝ事となつたのである。
譯文(甲):
另一方面,君主和人民中間等級的官吏改為選舉。當然,這個選舉和今日的代議政治不一樣,沒有代議的意思,它只是一種官吏的擢用方式,即是由自貴族階級中擢用,一變而為考試擢用,也即科舉考試。六朝時代,天下的官吏以九品中正方法選舉,完全受貴族的權利左右,當時有所謂「上品無寒門,下品無勢族」。隋唐以後改變這個弊病,實行科舉。不過隋唐的科舉依然是貴族的。這個制度到了宋代王安石時代再次一變。唐至宋初的科舉亦帖括和詩賦為主,前者測驗背誦經書的能力,後者考驗文學創作的能力。這個方法與其說是學科考試,毋寧說是人格測驗和書寫文章能力考試。不過,王安石的製度改帖括為經義,代詩賦以策論;經義是寫出對經書中有關義理的意見,策論則是提出政治上的意見。當然,到了後來,經義成為以一時的念頭去讓考官吃驚的文章遊戲,而策論亦不過成為對歷史事蹟的一種粗略概說,變得與實際的政務完全無關。但當時這項改變,仍達到了將過去的人格主義改為實務主義的目的。應試者中,唐代每年不過約五十人及第,明代以後科舉及第者大量增加,有時雖然只是三年一度,及第者仍有數百人以上,而特別值得注意的,是應試者在任何時候都有一萬人以上。換言之,官吏從君主獨裁時代的配給給庶民方式,變得容許機會均等。
譯文(乙):
此外,官吏,也就是君主與人民之間的中間階級,也成為選舉產生的了。當然這裡的選舉,並不像今天的代議政治一樣是代議性的,而是指一種官吏選拔的形式。過去是從貴族階級中提拔錄用,現在則一變而成為考試選拔,也就是科舉。六朝時代,天下官吏都以九品中正的方式選舉,完全被貴族的權力所左右,當時的俗語稱為「上品無寒門,下品無世族」。隋唐以來破除此弊,實行了科舉。然而唐代的科舉方式依然是貴族性的,這種方式也是從宋代王安石的時候開始發生劇變。從唐代到宋初的科舉,是以帖括和詩賦為主的。帖括考的是背誦經書的能力,詩賦考的則是文學創作的能力。因此這種試驗與其說是學科考試,不如說是人格考試和草擬文章的能力考試。然而王安石的製度卻是以經義代帖括,以策論代詩賦。經義是讓考生對經書中的義理發表意見,策論則是表達政治意見。當然在這之後,經義變成了單以一時巧思來驚動考官的文章遊戲,策論也變成不過是史事的粗略概說,和實際的政務沒有任何關係了。不過無論如何,這項改變本身的目的,在於將歷來的人格主義改為實務主義。至於應考的考生,唐代每一年的及第者不過五十人上下,然而明代以後的科舉及第者卻大量增加,雖然有時是三年一度舉行,及第卻超過數百人,並且應試者無論何時都有萬人以上。這也就是在君主獨裁時代,官吏的地位分配到了一般庶民,允許機會均等了。
政治の實際の状態に於ても變化を來して、殊に黨派の如きは其性質を一變した。唐の時にも、宋の時にも、朋黨が喧かりしが、唐の朋黨は單に權力の爭ひを專らとする貴族中心のものにして、宋代になりては、著しく政治上の主義が朋黨の上に表はれた。これは政權が貴族の手を離れてから、婚姻や親戚關係から來る黨派が漸次衰へて、政治上の意見が黨派を作る主要なる目的となつたのである。勿論この黨派の弊害は、政治上の主義から來たものでも、漸次貴族時代と類似したものとなつて、明代にては、師弟の關係、出身地方の關係などが重にこれを支配して、所謂君子によりて作られた黨派も其弊害も、小人の黨派と差別がなくなり、明は遂に東林黨のために滅亡したといはるゝに至り、清朝にては甚だしく臣下の黨派を嫌ひ、其ために君主の權力を益々絶對ならしめた。
譯文(甲):
政治上的實際情況亦沒有變化,特別是所謂黨派的性質有所改變。唐宋時代的朋黨雖都喧鬧一時,但唐代朋黨以貴族為主,專事權利鬥爭,宋代朋黨明顯地反映了當時政治上的不同主義。因為自從科舉離開貴族的控制,以婚姻和親戚關係結成的黨派漸次衰落,黨派成立的主要目的,便成為表達政治上的意見。當然,黨派縱然來自政治上的主義,壞處亦逐漸類似貴族時代。到了明代,師生關係、出身地方關係等又再度成為結黨的重要因素,所謂由君子組成的黨派,其弊端與小人的黨派沒有差別,以致明代終因東林黨而滅亡。到了清代,君主更因嫌惡臣下的黨派而使權利日益變得絕對。
譯文(乙):
政治的實際狀態上也發生了變化,尤其例如黨派的性質大變。唐代也好宋代也好,都是朋黨紛爭不已,但唐代的朋黨純粹是以貴族為中心的權力鬥爭,而宋代的朋黨則明顯表現出政治傾向上的不同。這是由於政治脫離了貴族之手,從婚姻和親戚關係產生的黨派漸漸衰微,政治意見便成為了樹立黨派的主要目的。當然,這種黨派雖然來自政治主張的不同,但其危害卻漸漸也變得與貴族時代相似。到了明代,師生關係、出身地方關係就成為主宰朋黨的重要因素了。所謂君子之黨,其危害與小人之黨也已經無甚區別。明朝最終竟至於被認為是亡於東林黨。清朝對臣下的拉幫結派深惡痛絕,因此就越發使得君主的權力絕對化起來了。
經濟上に於ても著しき變化を來した。唐代では有名な開元通寶の鑄造を行ひ、貨幣の鑄造は引續き行はれしも、其流通高は割に少ない。貨幣の流通が盛んになりしは宋代になつてからである。唐代は實物經濟といふ譯ではないけれども、多く物の價値を表はす貨幣の利用を、絹布によりて行つた。然るに宋代にありては、絹布、綿などの代りに銅錢を使用する事となり、更に發達すると紙幣さへ盛んに用ひられた。紙幣は唐代からして已に飛錢といつて、これを用ひたといふ事であるが、宋代に至りては其利用が非常に盛んで、これを交子、會子等と稱し、南宋時代は紙幣の發行高は非常の額に上り、其ために物價の變動も甚しかつた。兎も角充分に利用され、次の元代に於ては殆ど、銅錢鑄造の事なくして、單に紙幣のみを流通せしむることゝなつた。明以後不換紙幣政策が極端に行はれたので、遂に敗滅せるが、要するに宋代に入りて貨幣經濟が非常に盛んになつたといふ事が出來る。銀も此頃よりして漸次貨幣として重要の位置を占むる事となり、北宋時代などは僅かの流通にとゞまりしも、南宋に至りては餘程盛んになりしものらしく、元の伯顏が南宋を滅ぼして北京に歸る時に、南宋の庫から收得した銀を、北京に運ぶために一定の形に鑄造したのが、今日の元寶銀の始めだといはれて居るから、宋末には餘程流通をしたものと見える。明清に至り益々此傾向盛大となり、終に全く銀が紙幣の位置を奪ふに至つた。兎も角、唐宋の代り目が、實物經濟の終期と貨幣經濟の始期と交代する時期に當るので、其間に貨幣の名稱なども自然に變化を來した。昔は錢も兩とか銖とかで稱へられたが、これは勿論重量の名稱にて、昔は一兩が二十四銖と算せられた。宋以後一兩を十錢と計算することゝなり、即ち一錢が二銖四※[#「(ム/(ム+ム))/糸」、117-17]に當る。元來開元通寶一文が重量二銖四※[#「(ム/(ム+ム))/糸」、117-17]で、十文が一兩となるのであるから、宋代よりは重量の名稱を廢して錢の箇數であらはすことゝなり、これによりても錢の使用の當時如何に盛大なりしかを知るに足るのである。日本で重量の名稱を一匁(一文目)といふ如きは、支那の錢の名稱を逆に使用したものである。
譯文(甲):
經濟上亦有類似顯著變化。唐代鑄造了有名的開元通寶,雖然貨幣的鑄造一直不斷,但流通量相對較少。貨幣的大量流通到宋代才開始。唐代雖然不是實體經濟,但不少物品在利用貨幣表示價值之餘卻以絹布來交換。宋代則以銅錢代替絹布、綿等使用,發達的時候還盛用稱為交子、會子的紙幣,南宋時代紙幣發行上升至極高金額,物價變動因此頗劇。到了元代,差不多完全不鑄銅錢,單靠紙幣來流通。明代以後推行不換紙幣的極端政策,終於導致滅亡。總而言之,從宋代開始,貨幣經濟非常盛行。另外,銀在此時開始慢慢得到作為貨幣的重要地位,北宋時代雖然僅有少數流通,但到了南宋,似乎大為盛行。據說元代伯顏在滅南宋回北京時,為了要把南宋國庫中取得的銀運回北京,於是把他們按一定的形狀來鑄造,稱為今日元寶寶銀的始祖,可見銀在宋末相當流通。這種傾向到了明清更趨盛大,最後終於奪得紙幣佔據的全部地位。由於唐宋處於實體經濟結束期和貨幣經濟開始期兩者交替之際,其間貨幣的名稱等自然發生變化。以前的錢幣稱為兩或銖,不用說是重量的名稱,一兩計為二十四銖。宋以後一、兩十錢計,即一錢等於二銖四絫。舊日的開元通寶,一文重二銥四絫,十文衛一兩。宋代廢除重量的名稱,而以錢的個數來表現,從中可知錢的使用在當時是如何的盛大。在日本,中國錢的名稱反過來用於重量,一(一文目)即是其例。
譯文(乙):
經濟上也發生了顯著的變化。唐代雖然鑄造了著名的開元通寶,持續鑄造貨幣,但流通的總量還是比較少的。從宋代開始,貨幣的流通才盛行。唐代雖然不能說是實體經濟,但往往利用絹布來作為表示物品價值的貨幣。然而在宋代,就不再使用絹布、綿等,代而使用銅錢。更進一步發達以後,連紙幣也盛行起來了。雖然從唐代開始,已經使用名為飛錢的紙幣,但到了宋代,紙幣的利用更變得非常流行,稱為交子、會子等。南宋時代紙幣達到了巨額的發行總量,因此也導致了物價的劇烈變動。但不管怎麼說,總之紙幣都得到了充分的利用。接下來到了元代,幾乎就不再鑄造銅錢,只是單純流通紙幣了。明朝以後,徹底實施不兌換紙幣政策,紙幣因此失敗消滅。總之一句話,進入宋代以後,貨幣經濟變得非常盛行。在這個時期,銀也漸漸作為貨幣,佔了重要的地位。北宋時代還只有極少的流通,到了南宋似乎就已經大為盛行,元的伯顏滅了南宋,回到北京的時候,為了將從南宋府庫中收得的白銀運到北京,而鑄造成一定的形狀,據說這就是今天元寶銀的濫觴。可見銀在宋末已經大量流通了。到了明清,這種傾向日益顯著起來,銀最終完全取代了紙幣。總而言之,唐宋交替之際,就是實體經濟結束、貨幣經濟開始的更替期。因此在這段時期,貨幣的名稱也自然地改變了。古時候的錢或稱兩,或稱銖,不消說是重量的名稱,古時候把一兩算作二十四銖。宋代以後,把十錢算成一兩,也就是一錢相當於二銖四累。說起來,這原本是因為開元通寶一文重二銖四累,十文就是一兩。而宋代一開始就廢除重量名稱,轉而用錢的個數來表示。即使從這一點來看,也足以知道當時對錢的使用是何等盛大了。像是一匁(一文目)之類的日本重量名稱,其實就是把中國錢的稱呼方式倒過來用。
學術文藝の性質も著しく變化して來た。假に之を經學文學で説いて見れば、經學の性質は唐代に於て已に變化の兆候をあらはした。唐の初期までは、漢魏六朝の風を傳へて、經學は家法若くは師法を重んじた。昔から傳へ來つた説を以てこれを敷衍する事は許されたが、師説を變じて新説を立てる事は一般に許されなかつた。勿論其間には、種々の拔道を考へて、幾度も舊説を變じたるも、公然とかくの如き試みをする事は出來ない事であつた。其結果、當時の著述は義疏を以て主とした。義疏とは經書の注に對して細かい解説をしたので、これが原則としては疏不破注といふ事になつて居る。然るに唐の中頃から古來の注疏に疑を挾み、一己の意見を立てる事が行はれた。其尤も早いのは春秋に關する新説である。其後宋代になると此傾向が極端に發達して、學者は千古不傳の遺義を遺經から發見したと稱し、凡て自己の見解で新解釋を施すのが一般の風となつた。文學の中でも、文は六朝以來唐まで四六文が流行したが、唐の中頃から韓柳諸家が起り、所謂古文體を復興し、凡ての文が散文體になつて來た、即ち形式的の文が自由な表現法の文に變つて來た。詩の方では六朝までは五言の詩で、選體即ち文選風のものが盛んであつたが、盛唐の頃から其風一變し、李杜以下の大家が出て、益々從來の形式を破る事につとめた。唐末からは又詩の外に、詩餘即ち詞が發達して來て、五言・七言の形式を破り、頗る自由な形式に變化し、音樂的に特に完全に發達して來た。其結果、宋から元代にかけて曲の發達を來し、從來の短い形式の敍情的のものから、複雜な形式の劇となつて來た。其詞なども典故ある古語を主とせずして、俗語を以て自由に表現するやうに變つた。これがために一時は貴族的の文學が一變して、庶民的のものにならんとした。
譯文(甲):
學術文藝的性質亦有明顯變化。如果從經學、文學方面來說,經學的變化在唐已出現先兆。漢魏六朝之風一直傳至唐代初期,經學重家法和師法,倡導古代傳下來的學說,但不允許改變師承,另立新說。當然,已有人想出種種方法,多次近乎公然的嘗試改變就說,不過未有成功。當時的著述大多以義疏為主。義疏是對經書中註的詳細解說,原則是疏不破注。然而到了唐代中葉,開始有人懷疑舊有註疏,要建立一家之言。最早的是有關《春秋》的新說。到了宋代,這個傾向極度發達,學者自稱從遺經發現千古不傳的遺義,全部用本身的見解去作新的解釋,成為一時風尚。文學方面亦一樣。從文章來說,六朝至唐流行四、六文,到了唐代中葉,韓柳諸家並起,復興所謂古文,文章成為散文體。換句話說,文章由重形式改為重自由表達。從詩來說,直至六朝是五言詩,盛行選體意即《文選》之風。到了盛唐,文風一變,李、杜等大家出現,在打破以往的形式方面起了很大作用。唐末除了詩之外,詩餘亦即詞又發達起來,打破五言、七言的割據,變為更加自由的形式,特別在音樂性方面得到了全面發展。結果導致宋元之間曲的發達,並由抒情的短小形式,變成複雜的劇種。其中的詞等,不再以包含典故的古語為主,而變成以俗語自由地表現。文學曾經屬於貴族,自此一變成為庶民之物。
譯文(乙):
學術文藝的性質也發生了顯著的變化。暫且就從經學和文學的方面來說,經學的性質在唐代已經出現變化的徵兆。到唐初為止,猶承漢魏六朝之風,經學重家法或曰師法。雖然允許敷衍發展舊來的成說,但一般而言卻是禁止變更師法,另立新說的。當然其間也曾藉種種遁詞,屢次變種舊說,但這種企圖卻是不能公然宣之於口的。結果就使得當時的著述以義疏為主。所謂義疏,是對經書的註解細緻解說,在原則上是疏不破注的。然而唐代中期以後,人們開始對古來的注疏發生疑問,樹立一己的意見了。最早出現的就是關於《春秋》的新說。其後到了宋代,這種傾向極端發達起來,學者自稱從遺經中發現了千古不傳的遺義,完全以自己的見解作出新的解釋,成為了普遍的風氣。文學也是一樣。自六朝至唐,文章流行四六文,唐代中期韓柳諸家興起,復興所謂古文體,一切文章都成為散文體,也就是從形式性的文變為自由表現的文。詩到六朝為止是五言,盛行選體也就是《文選》風的作品,然而從盛唐開始,其風一變,李杜以下大家輩出,日益致力於破除舊來的形式。在詩之外,詩餘也就是詞又從唐末開始發達起來,突破五言、七言的形式,變成頗為自由的形式,尤其在音樂性上徹底發達起來。結果就使得曲自宋至元之間發達起來,從歷來形式短小的抒情之作,變成形式複雜的戲劇。在文辭上也不再以多用典故的古語為主,變成以俗語作自由的表現。因此之故,貴族性文學就突然一變,朝往庶民性文學的方向發展了。
又、藝術の方では、六朝・唐代までは壁畫が盛に行はれ、主として彩色を主としたが、盛唐の頃から白描水墨の新派が盛んになつたけれども、唐代を通じては新派が舊派を壓倒する譯には行かなかつた。然るに五代から宋にかけて、壁畫が漸次屏障畫と變じて、金碧の山水は衰へ、墨繪が益々發達した。五代を中心として、以前の畫は、大體は傳統的の風格を重んじ、畫は事件の説明として意味あるものにすぎざりしが、新らしき水墨畫は、自己の意志を表現する自由な方法をとり、從來貴族の道具として、宏壯なる建築物の裝飾として用ゐられたものが、卷軸が盛んに行はれる事となり、庶民的といふ譯ではないが、平民より出身した官吏が、流寓する中にも、これを携帶して樂しむ事が出來る種類のものに變化した。
譯文(甲):
還有藝術方面。六朝隋唐盛行壁畫,以彩色為主。雖然盛唐時白描水墨轉盛。以五代為分界,以前的畫大多強調傳統風格,畫無非是作為說明事件而有意義的一件物品,新的水墨畫則採用表現自己意志的自由方法。畫在以前是貴族的道具,作為宏偉建築的裝飾物之用,捲軸盛行後,畫雖然並未因此而大眾化,但卻轉為平民出身的官吏在流禹之際也可以攜帶享樂的一種物品。
譯文(乙):
此外,在藝術方面,至六朝唐代盛行壁畫,以彩色為主流,雖然白描水墨的新畫派從盛唐開始盛行,不過終有唐一代,新派並未能壓倒舊派。然而從五代到宋之間,壁畫漸漸變為屏障畫,金碧山水衰落,水墨畫日益發達。以五代為界限,這之前的繪畫大體上重視傳統風格,畫的意義不過在於說明事件而已,然而新興的水墨畫卻採用了表現自我意志的自由方式。歷來只是貴族的道具,用於裝飾宏偉建築物的繪畫,開始盛行捲軸形式,發生了種類上的變化,雖然還不能說是庶民性的,但平民出身的官吏縱使在流寓之中,也能夠隨身攜帶著來欣賞了。
音樂も唐代は舞樂が主で、即ち音を主として、それに舞の動作を附屬さしたもので、樂律も形式的であり、動作に物眞似などの意味は少くして、ことに貴族的な儀式に相應せるものなりしが、宋以後、雜劇の流行につれて、物眞似の如き卑近の藝術が盛んになり、其動作も比較的複雜になつて、品位に於ては古代の音樂より下れるも、單純に低級な平民の趣味にあふ樣に變化した。其尤も著しき發達を表はしたのは南宋時代である。
譯文(甲):
音樂的變化亦同樣。唐代以舞樂為主,即是以音為主,舞的動作不過是附屬品,樂律亦重形式,少有模仿動作的意思,所以樂是一種服務於貴族的儀式的東西。宋代以後,隨著雜劇的流行,模仿事物一類的通俗藝術盛行,動作較為複雜,品味較古代的音樂下降,變得單純以低級的平民趣味為依歸。這種情形表現最突出的是南宋時代。
譯文(乙):
音樂也是一樣。到唐代為止,音樂以舞樂為主,也就是以音聲為主,添加上舞蹈動作,因此樂律也是形式性的,很少有以動作來模擬物象的意味,尤其與貴族性的儀式相適應。宋代以後,隨著雜劇的流行,模擬物象的淺近藝術盛行起來,動作也變得較為複雜,在品味上要低於古代的音樂,變為單純迎合低層平民的趣味了。最為顯著地表現出這種變化的,則是南宋時代。
以上の如く、唐と宋との時代に於て、あらゆる文化的生活が變化を來したので、此他にも微細に個人的生活を觀察すると、其何れもの點に、此時代に於ける變化の表れたことを認むるが、今はかくの如き微細の點を述べる事は避ける。
譯文(甲):
如上所說,唐代和宋代,在各方面的文化生活上都有變化。除此之外,如果從一些細微的個人生活區觀察,還可以發現更多反映這個時代的變化。但這裡不想論述這些細微之處。
譯文(乙):
如上所述,在唐與宋的時代,一切文化生活都改變了。因此如果在此之外,對細微的個人生活也都加以觀察的話,我敢斷言,這種時代變化同樣會在任何方面都有所表現。不過這裡就暫時放下這種細微之處不談了。
要するに支那に於ける中世.近世の一大轉換の時期が、唐宋の間にある事は、歴史を讀むものゝ尤も注意すべき所である。
譯文(甲):
總而言之,中國中世和近世的大轉變出現在唐宋之際,是讀史者應該特別注意的地方。
譯文(乙):
要而言之,中國中世、近世的一大轉換時期,就是唐宋之間。此點為讀史者最當留心者。
(大正十一年五月發行「歴史と地理」第九卷第五號)
(《歷史與地理第九卷第五號,一九一〇年》)
翻譯出處:http://miniyuan.com/simple/?t5646.html
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